第18話  無一文 ①

 第15話に書いた通り、68年暮れから69年4月頃までの記憶は朦朧としていてハッキリしない、阿片とガンジャの煙に包まれたままなのだ、その4~5ヶ月間のネパール・インドでの話だ。

 カトマンズで一緒に部屋を借りた中の一人の体調が良くない、ネパールの地方でボランテアをしている日本人医師(名前は忘れてしまったが確か「岩」が付いたと思う。)がカトマンズに来ているとの噂を聞き、彼を診てもらったところ、このままだと生死に係わるとの事だった、日本まで飛んで帰るだけのお金を彼は持ち合わせてはいなかったので、皆でお金を出し合って日本までの切符を買い、日本へ帰した。 

 私はボンベイからシンガポールまでの切符を持っていたし、出港日も近かったのでそれまでに必要なお金を計算し、彼に100ドル貸してあげた、そのお金はシンガポールへ送金してもらえばいいと考えたからである。
 覚えておいでだろうか、第13話の大使館の証明書でも200ドル足らずしか持っていなかったのだから、残りはたいした金額ではなかったはずであるが、私の緻密なる計算によればそれで十分な金額だったはずである。

 出港日に合わせる様にネパールを出てボンベイへ向かった、そこで聞いたのは、船が来ない!という事だった、港湾ストで出港すらしていないと言うではないか、これではいつになるかも判らない、どうにかしろと散々もめたが、結局船が来るのを待つしかなかった。
 
私の緻密なる計算ではこのような事が起ってはいけないはずだったのだが。
 この時程青くなった事はない、手持ちのお金ではいくらももたなかったはずである、いつ無一文になったか定かではないが、無一文でもやっていける事が判ったので、覚えていないのだろう。

 ボンベイ、ラジギール、カルカッタには「日本山妙法寺」という日本寺があって泊めてもらえたし(カルカッタには泊まった事はないが)、駅、公園、軒下、路上と、いたるところに寝ている人達がいたので、寝場所には事欠かなかった、何日かボンベイの日本寺にいたが、修行(?)の旅に出た、荷物は日本寺に預かってもらい、インドの白い上下(左の写真は後年バンコクでのものだが)にシーツ(どこかのホテルで頂いた物)一枚という軽装である、どこにいても無一文は無一文で変わりは無い。

インド乞食時代の思い出


 「衣食住」というが、どういう基準を基に並べたのだろうか、どうしても欠かせないのが「食」である、だから「食衣住」と並べ変えてほしいと私は思う。

 さしあたって「衣」の心配はない「住」など考える事もないくらいた易い、残りの「食」だが、これは無一文の私にとってどうにもならない、今まではこちらに選ぶ権利があったが、こうなるとくれる、くれないは向こう側にある、お寺では何教にかかわらず、随分食べさせてもらった、第5話に書いた「好奇の目」をこの時は最大限利用した、駅とか人通りの多い所で誰かが話し掛けて来るのを待った、これでかなり「チャイ」やら「チャパティ」にありついた、お金がある時は煩わしいと思っていたのにお金がなくなったとたん、それを待つようになるとは、あとはお決まりの「バクシーシ」である、競争相手(仲間?)は無数にいる、だから簡単に開業出来る、開業資金不要、即日開業が可能だが、心の準備ってのが開業を阻む、私はそんな事は言っていられないので随時開業した、が、手軽に始められるだけあって儲け(?)はあまりなかった。

 寝る所は上記に書いたとおり、どこでもよかった、ここ、と決めればそこが寝床になった。
 どこの駅だったか忘れたが、木製のベンチがあった、座る人はいるが寝ている人はいない、皆、冷たい大理石の床に寝ている、何故だろうか、絶対数が不足しているので遠慮でもしているのだろうか、私は外国人でお客様である、遠慮はしない、その夜のベッドとなった、次の日、なぜそこに寝ないのかが解った、私の脇腹に点々と赤い筋が引かれている、南京虫だ、ベンチを見ると、板と板の隙間にズラーッとならんでいた。 郷に入れば郷に従え、私はこの格言を忘れていた。

 ストリート チルドレン というのがあるがインドにはストリート ファミリーがある、ダンボールの囲いも何も無い、本当に路上で生活している、炊事も食事もそこでやる、そこらで拾い集めた木や、第15話の「ニューデリーのYH」にある石油ストーブで煮炊きをしていた、夜、薄暗い通りを歩く時には、足元をよく注意しなければならない、人を踏みつけるおそれがあるし、時として犬の糞ならぬ人間のそれを踏む恐れが大だからだ。
 糞といえばインドは手で水を使う、というので有名(?)だが、なにもインドの専売ではない、東南アジアもそうである、慣れれば非常にいい。
 列車が駅に着くと、乗客が水の入った壺を手に藪に入って行く、そんな光景は慣れっこだったので気にもしていなかったが、ある駅でボーッとそういう光景を見ていてフッと気になった、女はあっちへ、男はこっちへ行く、それまでどこでもいいんだと思っていた私にとって、新たな発見だった、そのほかの駅での調査はしていないので全国的に決まりがあるのかどうかは判らないが、あの駅では厳格な決まりがあったのは間違いない、ヒンズー語を読む事が出来ないので判らなかったが、多分、線路の両側の藪を指して「男」、「女」という道路標識みたいな物があるんだと思う。

 何処だったか忘れたが、どこかの農村だか山村での光景だ、その辺のブタは黒いイノシシみたいなやつだ、人間の排泄物も食べてしまう、道端で4~5歳くらいの子供がしゃがんで用をたしていた、周りをブタがウロウロしている、そのうちの一頭がその子の後ろへ周りお尻を鼻先で押す、その子より大きいと思われるブタに押されるもんだから、たまらず前に出る、するとまた押す、その子は用が終わらないものだから、立って逃げる訳にもいかず、ヨロヨロとブタに押されながら用をたしていた。

 関連でもうひとつ、タイの南だったかマレーシアだったか忘れたが、海辺の村である、家のほとんどが海上にありトイレは勿論海の上だ、そこだけバシャバシャと魚が群れている、よく見ると何かが落ちて行く、さぞかしあの辺の魚は旨いだろう。

 ついでにもうひとつ、ネパールのバスのターミナルのド真中にそれがあった、犬のではない、人間のだ、あのサイズ、量からいったら子供ではないと思う、世界7不思議に付け加えたいと思う。

 インドでは牛は神様である、水牛ではだめなのである、来世は牛に生まれ変われるよう祈り、毎日辛い農作業に耐えている。
 乞食生活をしているうち履いていたスリッパも駄目になり、私は裸足で歩いていた、片方の足の裏がどういうわけか蜂の巣状になってしまった、かかとと土踏まずを除いて、地面にあたる部分に、無数の直径3~4mm程の穴が出来てしまっている、蜂の巣にそっくりで深さは2~3mmぐらいだったろうか、普段は痛くもなんともないが歩くと痛い、歩けない程痛くはないが、杖をつき、足をひきずりながら歩いていた、なるたけ汚い所は避けるようにしているが、どうしてもゴミが入る、楊子のようなもので掃除をするが、その時、、奥に触ると猛烈に痛い、あれはなんという病気(?)だったんだろうか、そのうち調べてみよう。
 この時期に会った日本人(記憶にない)が帰国後、私の実家に電話をし、彼はインドで杖をつきヨロヨロ歩いていた、と言ったらしい、丁度行方不明になっていた頃で、2度目の捜索願いが出されたそうだ。
 その蜂の巣が突然治ってしまった、そう、誤って牛の糞をもろに踏みつけてしまったのだ、一瞬、マズイ、と思った、ばい菌を踏みつけたようなものだ、と、思ったからだ、早く洗い流さなければと焦ったが、なかなか水が見つからない、洗い流せたのはかなりの時間が経ってからだった、ところがどうだ、しばらくしたら蜂の巣は完治してしまい、今まで再発していない、そう、インドでは牛は神様なのである。
 願い事のある人は、インドへ行き、神の糞を踏むがよい、必ずやその願い事は聴き入れられる、嘘ではない、神の力をまざまざと見せ付けられた私が言うのだ。「アッラー アクバル」、おッといけない、私とした事が回教と間違えてしまった。

 寝る所には不自由しなかった、盗られるような物は持っていなかったので、シーツを掛ければそれでよかった、大概が駅で寝ていた様に思う、インドの駅は実にいい、大きな駅には、トイレは勿論、シャワー室から仮眠所まであった、このシャワー室、仮眠所には随分と厄介になった、誰でも入れるようなシャワー室ではない、そんな所は外の川で水浴びするのと変わりは無い、1等もしくは2等車の乗客の為の待合室にあるやつだ、ここは基本的に切符を持っていないと入れない、入り口にシークのおじさんが番をしているが国をあげて警備をしなければならない所でもないので隙だらけだ、おじさんの目を盗んで入り込み真っ直ぐシャワー室へ直行、カギを掛けてしまえばこっちのもんだ、そこには大概、乗客の使い残した石鹸などがあった、身体を洗い、衣類を洗う、お湯が出る所もあり実に気持ちがいい、かなりの時間をそこで過ごした後、着替えはないから洗濯した衣類を身につけ、入り口のおじさんに挨拶などして出て行く、後は公園かそれらしい場所で時間を潰していれば着ている物も乾いてしまう、仮眠所も同様で、フカフカベッドに潜りこんでしまえば、起こされるか起きるまで寝ていられた。
 ネパールにいた時と違い、乞食をやっていた時の方が断然清潔であった、只ちょっと食料事情が良くなかった。

 駅では大概、朝、「パニ アヨ 々」(パニ:水 アヨ:来る?)とホールなどを打ち水し掃除をする、我々家なき子はいやでも起こされてしまうが、たまに起きないのがいる、そうするとまず持っている棒で突付く、それでも起きないと、鼻に手をかざす、そしてどこかへ運ばれて行く。

 ベナレスだったか、お寺の境内に座っていた、そこへ、日本人の団体がやって来た、当時だからそんなに観光客もいない、境内も閑散としていた、彼らはゾロゾロと階段を上り中に入って行く、一人の男性がその建物をバックに記念写真を撮ろうとした、団体なんだから誰かに撮って貰えばいいのに、彼は三脚を立て、ピントを合わせタイマーをセットすると階段へ走った、近くをウロウロしていたインド人がすかさず三脚ごとカメラを担ぐと反対方向へ走り出した、階段へ辿り着き、振り返ってポーズをとった彼の見たものは、あ~あ、可哀相に。

 カルカッタで、日本から着いたばかりという人と会った、彼と歩いていると、例によってインド人の観光客(?)に取り囲まれた、何処から来て何処へ行くんだと煩くってしょうがない、そのうち彼の持っていたカメラを見せろと言う、よせばいいのに、彼は首から外しインド人の手に渡した、彼らは感心したように見ている、カメラは次の人の手に渡っている、ほかの事に気をとられているうちカメラは行方知れずとなってしまった。

 乞食の間、私はボンベイ・デーリー・カルカッタを結ぶ三角を、確か3周したと思う、無一文のくせに?、自分でもよくやったと思う、全て無賃乗車だった、捕まった事は数知れず、だったが一度として警察沙汰になった事はなかった、近くの駅で降ろされる事が多かったが、時には駅長室(?)でさんざ怒られたぐらいだ。それまではよくわからなかったがインド人の無賃乗車もかなり多い、同じ境遇の者はその動向が気になるものだ。
 列車に乗るのは簡単だ、切符を調べる訳でもないし改札口もない、目的地があればその列車にのればいい、私には明確な目的地などなかったからデーリー方面、ボンベイ方面で十分だった、私はいつも最下級の等級で最も混んでいる車両を選んだ、ローカルなどであまりにも混んでいると検札にも来なかった。
 運悪く(?)検札に遭った時には色々な言い訳をした、英語がよく解らない(これは事実)、荷物ごと盗られた、アレッ 切符がない等など口からでまかせ、どうせ何ももってはいない、これで許される時もあったが、大抵は次の駅で降ろされた、これを繰り返してやった。


 どこでボンベイ・シンガポール間の船の切符を買ったのか記憶がない、が、なぜ日本までの切符を買わなかったんだろうか、お金がなかった訳ではない、ネパールでは100ドル貸している、そのお金でシンガポールから日本までの切符が買えたはずである、もし買っていたら人助けは出来なかっただろうが。

 どうもこの乞食期間に、私のホテルと食事にはお金をかけたくないという気持ちが培われてしまったようだ、食事はともかくとして、ホテルには今でもお金はかけたくない、星がいくつも瞬く様なホテルなど、眩しくて寝られない、星は外で見ればよい、食事は昔から、好き嫌いは特になかった、かといってこれはという好きな物もない、ようは何でもいいのだ、1日や2日食べない(食べられない?)のはざらだったので、あれば食べる、なければ食べないで、今でも平気だ、だがこの頃、少しだけ贅沢になった、ホテルは下の下から下の中になったし、美味い不味いを言うようになった、当時を考えればその様な事は言えないのだが、お金持ちはどうしてもわがままになる。

  日本でこの時のような境遇の人を見ると思い出す、しかし、とても日本でやる度胸はない、そうならないようインドの神に祈りたい、幸いな事に今までやらずに済んでいる、もう少しこのまま続いてほしい。

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